Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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C.1

カント通り



個の可能性研究会ワークショップ2003・分科会C

宮永:再帰性に関して、外山君、御願いします。
外山:私の発表は、再帰性そのものについての発表ではなくて、より普遍的な世界像を得るには何が必要か、というテーマです。
宮永:自己言及性を中心に御願いします。
外山:そこで、自己言及性が本質的にでてくるという話をします。
宮永:お願いします。
外山:では、始めます。テーマは「より普遍的な世界像を得るには何が必要か」です。まず、グローバル化が進み非常に流動化した状況に有利に対応するには、より普遍的な世界像ー矛盾のない、どこにいっても通用するような世界像ーを得る必要があります。しかし、グローバル化の進んだ状況においてのみでなく、より普遍的な世界像とはそれだけで価値です。それは個であるために必須なものです。より普遍的な世界像を構築すること、より普遍的に世界を認識すること、には何が必要かというと、結論を先に言ってしまうと、自己が自己の世界像を構築しているということを自覚することです。この自覚する…。
宮永:自覚ね。
外山:…というところがポイントです。ここで自己言及性が本質的に関わってきます。自己が自己の世界像を構築しているということを自覚することを言い換えると、自己の世界像を意識的に構築していることと言い換えられます。なぜこのことがより普遍的な世界像を構築してゆくことに必要なのかを、これから説明してゆきます。
まず、自己が自己の世界像を構築していること、これは全くトートロジーです。自己の世界像とは自己によって見られた世界の像なのですから、それを構築しているのはもちろん自己です。だから実にトートロジーです。しかし、このことが不思議なのですが、その当たり前のこと、トートロジーがなかなか自覚されません。世界像は自分が構築している様に思われなくて、全く与えられたかの様に見えるものです。その無自覚的に構成された世界像ー当然それはローカルな自文化の影響をもろに受けて構成されるわけですがーは、あたかも所与の様に、自己の力では変更できない様にみえるのです。すごく自然に見えるのですね。
宮永:自然に見える。
外山:しかし、自己の世界像というのは自己の力で変更することができます。なぜならば、その世界像というのは、無自覚的であれ、他でもない自己によって構築されたからです。自己は世界像を構築するだけのパワーを持っているのです。例えば、日本で生まれ育った後、海外で長く生活した日本人が再び日本に帰ってきたとします。その人は日本文化をとても不自然に感じるかもしれません。その人は日本文化を既に身に付けていたけれども、海外生活によって本人が気付かないうちに、その人の世界像が変化したのです。そして、その世界像を変えたのはもちろんその本人です。
宮永:大会場でやったようにまとまったものでなくて良いので、ここでは、ざっくばらんにいろいろ仰って下さい。大会場には、ここで今やったことを、一年間考えた結果の発表となります。またもう一回これをやって、その翌年ということでもいいのです。ここは誰でも発表できるし、誰でも何でも聞いていい所です。
それで、三つ伺います。まず、あなたが仰っていることと、武者小路先生が仰っていることと、どう違うのかなというのが一つ。次が、誰でも世界像を持っているのだったら、自己言及性なんかいらないんじゃないか。どうしてそれがそんなに特別なのでしょう、というのが一つ。それから、できれば萩原君に今外山君が仰ったことに関して、もっと具体的な事例として、ヤップ州を出していただければ、分かり易くなるのではないかと思います。話が具体的になって。外山君が言っていることは、分かりますか。
萩原:もうちょっと説明を続けて頂かないと、全体的な構想が見えてこない。
宮永:じゃあその、全体的な構想をお願いします。
外山:先生の二番目の質問にも絡ませるかたちでいいましょう。まず世界像という話なのですが、ここでいう世界像というのは世界認識と同じ言葉です。誰でも自分の世界がどのようになっているのか、ある程度の認識は持っているわけですよね。そうでないと、そもそも生きていくことすらできません。日本人には日本人なりの世界像がある。私には私なりの世界像がある。当然人が違えば、違う世界像をそれぞれが持つことになります。誰でもある程度の世界像は持っているのです。しかし問題なのは、その世界像がより普遍的であることです。
宮永:普遍がどうして、自己言及性と関係あるのか、良く分からない。萩原君、自己言及性ってどういうものかというのを、ひとことで分かり易く仰って下さった。それでも、自己言及性って何かというのは、分かりにくいです。まずそこを言ってください。
萩原:自己言及性についてですか?これは、反省的な視点を獲得することによって自己のパースペクティブを揺さぶって二項対立の図式を相対化していく。
宮永:(資料を配布)
萩原:この場合特に、外部から来たよそ者という異質な他者によって、パースペクティブが揺さぶられることを通じて、他者という鏡に映し出された自己の姿を批判的に認識すること。
宮永:そうなんです。他者という鏡と言いますけど。この英語の所の...一番最初の所ですけど。ゆっくり読んで頂ければ分かるんですけど。要するに、自分を鏡に映して見て、そこに映っている自分というのは自分であって自分でない、ということなんです。それが書いてある。そこから、自分であって自分でない自分を自分がどう解釈するか、ということなんです。自分であって自分でない自分というのは一体じゃあ何か?というと、鏡はある意味でのシンボルであって。要するに、そこに映っている自分は他者から見える自分、人から見える自分を想定しつつ自分を見ているわけです。鏡ね。そうすると、鏡の中にある自分の方が自分で、その自分を見ている自分の方が鏡の中にある自分にとっては他者の立場にいて。要するに、その鏡の中にある自分を相対化するように「今日はなんか目がしばしばしているな。」とか「これでは本当の私の魅力が出ないわ。」とか思って見るわけでしょう?それから、「この眉間の縦皺は反抗的に見られるとまずいな。」とか思って一生懸命のばしたりなんかする。それは、鏡に映っている自分という、社会的な自分をもう一回、再構築しようとする努力があるわけです。そこは、鏡と自分の間にはこの程度の距離しかないんだけど、この間に社会という大きなものがどーんと入っているわけです。そういうことです。
外山:私が言う自己言及性というのは、数学基礎論や論理学でいうような自己言及性です。
宮永:分かりやすく言って頂けますか。どんなものでもいいですから。
外山:単純にいって、自己について何かを言及すること、自己を認識することです。例えば、私がこのマイクを認識する時に、シンボリックにいえば、私の目からこのマイクに向かって認識の矢印が飛んでいくわけです。自己認識の場合は、その矢印が再び自分に帰ってきます。再び帰ってくるというところで再帰性がでてくるのです。そういう意味で、私は自己言及性や再帰性という言葉を使っています。したがって私の言葉の使い方では、必ずしも他者が入ってこなくてもよいということになります。
宮永:そうなの?それは不毛だと思いますけど。あ、こんなこと言っちゃいけないかもしれない。最初から。
黒田:この原稿を見ていると、普遍的な世界像は、自己の世界像を意識的に構築することで得られるということになりますね。自己の世界像、世界認識を意識的に構築している社会にはいろいろあります。例えば北朝鮮の主体思想を考えてみてください。社会有機体論といって首領が頭で物事を考え、人民は首領に従っていればいいという考え方です。肉体的生命より首領からいただいた政治的生命が大事だという思想です。そうして世界をウリ(われわれ)式にとらえ、全世界を主体化するということがその基本認識です。この思想はそれこそ意識的に世界認識を構築しているといえませんか。つまり、それがより普遍的な世界、世界像だ、となってしまいますね。
宮永:確かにそうだと思います。他者と言う概念が無ければ、思い込みの強い人のほうが、普遍的ということになっちゃう。だから、そこに他者という項が、必要なんだと思うんです。しかも、価値じゃなくて、事実としての他者。事実は価値を相対化することができます。だけど、価値と価値が出会っても、ぶつかるだけで、水かけ論になります。それに対して、価値と事実がぶつかる時には、事実が価値を対象化するんです。それまでは価値は絶対だと思うんです。特にそういう、これが普遍だ、と思っているような人にとっては、絶対だと本当に思うんです。「そうじゃない」、と言う時に、私がただ価値的に「そうじゃない」と言えばぶつかるだけで水かけ論だけど。そうじゃないという事実を何か一つ差し出せば、その価値は相対化されて、「ああそうだったのか」、と思う。そうすると、その価値がそうだったのかと思うと、その価値を持っていた人は、その価値の外へ出なければいけないわけでしょう?そのことによってその人の世界が広がって、少し普遍性を得るわけですよね。それをずっと繰り返していくということじゃないんですか?普遍性を得るって、それしかできないんじゃないですか?最初から、普遍だなんて言ったら自分が神になる以外ない。
ここが、すごく難しいところだと、私は思うんです、事実と価値って。それが分かっちゃえば、社会科学はすごく簡単な学問。もう本当に、手のひらの上に乗るくらい簡単なんです。事実と価値というのを、自分の中でパッと分離できれば...と、思うんですけど。
外山:わかりました。自己の世界像を意識的に構築することだけでは足りなくて、そのときに事実に即して、ということが必要になりますね。
宮永:そうなんです。だから、意識的というのは事実に、則するための必要条件です。けれども、そこは到達点じゃなくて、出発点だと思うんです。
外山:だから、こう言い換えれば良いでしょうか。自己の世界像を意識的にしかも事実に即して構築することが必要だと。そこで、「ではどう事実を見るか?」という重要な議論が出てきます。
宮永:そう。その議論は何でしょう?そこから科学が始まった。本当に。
外山:ええ。でも、私のこのレジュメではその議論はしないで、その先に進み…。
宮永:そんなことができます?
外山:もちろんその議論も重要なんです。しかし私は他のこともまた言いたいと思っています。なので、まずは私の発表を聞いていただいてから、その議論をはじめたいと思うのですが。
宮永:はい、続けて下さい。
外山:無自覚に構成された世界像はすごく自然に見えて、自分の力では変更できないように見える。しかし、その世界像であっても、結局は自分が構成したのです。
宮永:そんなこと、どうして分かるのですか?
外山:そうですね…。
宮永:意識的になるというのは、自分が作ったということを自覚する、ことを言ってるわけでしょう?その意識を持つためには、その意識を持とうという意志を持たなきゃいけない。結局だから、どうやれば自己対象化とか、そういう意識を持ち始めることができるのか、というのがあるわけですよね?
外山:そうですね。その問題はありますね。でもここではその問題もおいて...
宮永:自分の問題を置いていっちゃ、困ります。
外山:私の言っていることは、かなりラディカルで哲学的だと思います。
宮永:面白いです。ただ置いていくものが多いから、私たちまで一緒にされて置いていかれちゃうんじゃ、と思って。それが不安になるのですけれど。
外山:なぜ、無自覚的であれその世界像をその人がつくったと言えるのかという点ですが、それは、その思考主体がつくってないのであれば、誰がつくったのかという話ですね。
後藤:その思考主体自体がいろんなローカルな社会的な文脈だとか人間の関係性とかに形成されている、構築されているというふうには考えないんですか?その思考主体が認識すること自体がもう方向付けられているという可能性もあります。
外山:ええ、もちろんそうですよ。しかし、方向付けられているにせよ、認識しているのはその認識の主体ですよね。これもトートロジーですけれど。認識の主体は認識の主体です。その意味で、私は認識主体という言葉を使っています。
宮永:ちょっと待って。でも、今の質問はもっと深い。そこで終わらないでしょう?
後藤:はい。つまり、自己が自己の世界像を構築しているというのは無条件になされているのではなくて、その自己自身がすでに何らかの影響で形成されているわけで。白紙の状態から自分で世界像を書き込めるものではないと思います。そうすると、その「自己が自己の世界像を構築している」ということになると、僕はその時点でちょっと引っ掛かってしまうんですけど。もちろん構築しているんですけど、その構築している自己自体が、何らかの影響で構築されているということです。
宮永:そうそう、面白い。
萩原:それを整理すると、こういうふうに言えます。まず一つは、言語哲学で言う「間主観的コミュニケーション」の問題です。つまり、主体というものはそれ自体だけで自己を構築していくというよりは、コミュニケーション能力の獲得において、外界との接触を通じて形成されていく。それからもう一つは、その主体の形成ということを、構造的に捉えることも必要なのであり、自らが依拠する周囲の人々や環境が安定的なものとして想定されているということが必要です。つまり、精神分析で言う「想像的なもの」が、無意識的で自明なものとして機能しているから、それを頼りにして自己を構築していくことができる。そういう意味で、これは言語哲学的なアプローチと精神分析的なアプローチと二つの面から見ていく必要があるわけです。
宮永:後藤君が言っていたことは、またあらためて問題になるんじゃないですか?
さっき仰っていた話、「自己が構築された、されている」、ということを問題にしようとしていましたよね?されているとすれば、主体的な構築というのはできにくくなってくると思いますけれど。
後藤:そうですね。社会構造や環境に構築されつつも自分で構築するということになるでしょう。
宮永:それはどういうふうに、出てくるのでしょうか?それが。
後藤:「それが」というのは、「自分で構築する」ということがですか?
宮永:自分は構築されているにも関わらず、自分で構築しようとする契機のことなのですけれど。だって、自分を構築されてたら、まず、自分は構築したい、と思わないわけでしょう?「構築されてて、それでいいな。」と、おもうのではありませんか。「自分はそうだ。構築されてるのが自分だ。」と思えばべつに、構築しよう、とあらためて思う必要はない。それから、主体である必要もないわけでしょう?それが、主体であろうとするとか、構築されていることに満足できないと思うとしたら、あるいは感じるとしたら、一体それはどこにあるのかな、と思うんです。だから、それが自己言及性というところに、やっぱり引っかかってくると思うんです。
後藤:では、その自己再帰性という、自分が何者なのか、自分がどうありたいのか、という自分にかえってくる再帰性と、その自己が形成されている社会がどういう状況にあるのか、という社会への再帰性、あるいは構造再帰性というのがあります。そのきっかけになるのは、例えば知識を得ることであったり、あるいはさっきの発表にあったように全然異なる社会構造だとか文化構造に出ていく、そこで受けるショックみたいなものであったり、いろいろあると思います。
宮永:いろいろあると思います。
高橋:自分が所与のもののようにとらえていた世界観が他者の世界観によって挑戦を受ける、そこで個々が認識している事実やその相違が問われ、それぞれが自らを再構築せざるを得なくなるという事例は日々の生活に溢れていると思います。自己に不断の再構築を迫る先鋭的な場の一つとして、あるものごとを他者と協働的に実行してゆく過程が挙げられます。
宮永:録音の都合上、大きい声で御願いします。
高橋:企業において商談をするとします。私は消費財、特に皆さんが使う生活用品を通信販売するという小売企業に在籍していますが、たとえば幾らの価格で仕入れたものを幾らで販売するかを決定する過程で、社内外と様々な交渉をしなくてはならない。ときには、メーカーが設定している販売価格が私たちからすると不当に高く感じられることもあります。
では、実際どのようにすれば決定できるのか。通常は、まず仕入れ価格のうちマテリアルや人件費などの経費がどれほどかかっているかを検証します。次に利益はこれこれだけのせればいいのではないか……というふうに考えていきます。しかし、そうすると、検証作業の後に「これこれ」の度合いの問題が問われる段階に入り込んでしまいます。このとき、交渉の場にある個々の世界観が問われる。企業人としての面、生活者としての面、それぞれの事実を踏まえ、ときに組み合わせてはそれぞれが主張を構成し、かつ表現してゆくことになります。ちょっと散漫な例になってしまいましたけど。
言いたいのは、自分はこうだと思ってきたとか、相手がこうしたいと表現していることは、裏にどういう意味があるのか、それを支えている事実とは何なのかを知り、考え直さざるを得ない状況がたくさん出現するということです。自分が当たり前だと思ってきた考えが挑戦を受ける、言いかえれば違うと思っている人がいるんだと発見してはその理由を探っていく、そのような機会が企業においては不断にあるんです。これもまた、自分自身を振り返るということじゃないかな、と思います。
振り返るのは自分自身だけじゃないかもしれない。販売目標など、自分の所属する企業が求めてくるものごとも常にありますから。いろいろな事実や価値が同時に在るわけで、それはもちろん必ずしも倫理的な部分だけには限られません。また、先ほどからよく分からなかったのは、自分が社会をみる見方、マイクの例のような事物を認識する仕方と、倫理的な部分を認識する仕方と、例えば、「私ってこういう人なの。」という決めつけのように自分が自分はこういう人であるとひたすら言及し続けるという仕方と、どの辺りを言っているのかということです。最後に、問題というか、分からなかった部分として挙げさせていただきたいと思います。ちょっとさえぎっちゃったかもしれませんけど。
宮永:そんなことはないですよ。「世界像だって、いろんな要素がある。」というところを、もうすこし御願いします。それは価値と...?
高橋:そこがはっきりしません。
外山:全てひっくるめて、です。
宮永:「全て」に何が入っているか、でしょうか?
外山:価値体系も入っているし、事実が何か、と言う問題も入っています。
後藤:では、「普遍的になる」とは、どういうことですか?
外山:つまり、事実に関して…。
池松:外山君のレジュメを読んで、一番気になったのがより普遍的になるっていう箇所だったんですけど。より普遍的になるには、何か意識変革のきっかけが必要ですよね?きっと、何らかの問いに対する答えを外山君なりに書こうと思ってこのレジュメが出来上がっていると思うんですけど。そこが微妙につながっていないように感じるんです。先生の問いと。具体的には、一体どういう問いに対する回答として、外山君がこの定義を考えていたのかな、というのが気になるんですけど。
外山:そうですね、基本的な…。
宮永:声が増幅されるわけじゃないので。(それは単にカラオケなので。)
外山:わかっています。私のレジュメとこの分科会との間でテーマや語の定義が微妙にずれているのだと思います。なので、このレジュメに沿って議論を進めていくのは混乱が増すだけだと思います。
宮永:今までの議論を、整理してみましょう。最初に、「自己言及性とは何か」という話がでました。他者と関わろうとすると、発信したときの自分と、他者を通じてかえってきた自分とが違っているので、そのギャップを埋める自分、努力する自分、というのが不断に必要になってくる。そうすると、自分というものはそこでは静止したものではなくなってきて、他者というものがある限り、自分というものの一貫性を持つためには運動する以外ない。自分というのは運動体になる。静止体じゃなくて。だから、自分の努力によってしか自己の一貫性というのは保つことができない、とまずそこに居直らないといけないんじゃないか。それが、外山君の言う意識的になるということの内容ではないか、と思います。
その時に、他者というのが価値の他者でなく、事実としての他者なのです。価値としての他者だったらば、自分もその価値を持っているとさえ思えば良いわけで、そこで全部終わっちゃうわけです。めでたしめでたしです。ところが、事実としての他者というのは、自分と同一化できない部分が、必ずある。それは向こうにとっても同じなんです。「私」に対して。そうなると、事実って何か、という問題になります。
事実に関しては、シェフラー先生がすごく分かりやすく仰って下さったことがあります。「経験的日常的な事実だけを事実だというふうに考えるんだったら、今だって天動説の方がずっと私たちの観察に合致している。」日常的経験を超えて事実に接近するためには、推理が必要不可欠なのです。
萩原:今、宮永先生が仰った点は、議論の方向性としては全く賛成なんですが、ただ科学革命の位置づけということについては異議があります。科学革命というのはガリレオのところに設定されていたわけですけれども、天動説から地動説への転換というのはキリスト教の知識体系の内部で起きたわけです。それが十八世紀後半の啓蒙主義を経て、キリスト教的な秩序あるいは世界像というものが揺らいでいく中で、十九世紀になって近代科学が誕生します。科学史では、こういうふうに位置づけられるわけですが、このようにしてキリスト教的な社会というものが世俗化していく、ここのところにこそ、西洋近代の原動力の一つがあるのではないかというのが私見です。
それから、これは宮永先生の仰っていることに重なると思うんですけれども、地動説について。先ほど仰ったように、経験的な事実だけからでは、地動説は認識できない。けれども、地動説が理論として語られることによって、初めて科学的「事実」が構成される。これは、科学哲学で言う「理論負荷性」です。つまり、日常的な知覚経験というものがあって、大森荘蔵の言葉を使えば、そこに科学的な理論に基づく観察が「重ね描き」される。日常的な知覚と科学的な理論、これらが一体となって科学的な認識があり得るわけです。
それから、この科学的な認識というのは、単に理論だけが絶対的なのではなくて、実験などを通じて得られた観察結果も、理論を補強しています。けれども、過度の逸脱例の続出や、あるいは新しい理論との競合、そういったものが起きた時に、それまでの理論の自明性が揺らいで、新しいパラダイムへと移行する可能性がある。しかし、従来の理論の自明性は強固なので、移行が容易に生じるわけではありません。このようにして捉えると、事実と理論というものの関係性が見えやすくなるのではないかと思います。
そして、これは我々の認識にも言えることだと思うんです。もちろん、日常的な経験の場合、科学的なパラダイムよりも、それを成立させるコミュニケーションの体系が自明で曖昧であることが多いので、その変化は自覚されにくく、実際にそれが生じ得るとしても、柔軟な構造に吸収されてしまって、大きな変化に至ることは少ないのですが。
宮永:萩原君せっかく厳密に仰って下さったのですが、わたくし流に簡単にまとめさせてください。
一番最初の科学革命がどうなっているかというのはいろんな理論があると思います。
次は、理論と事実の競合性、あるいは、古い理論と新しい理論の競合性ですよね。これに関してのわたくしのゼミの定番は、赤いスペードの事例です。赤いスペードっていうのはあり得ないものなので見せてもらった人はそれが見えない。お渡ししたものの中に事例がありますので、御覧になってください。有名なトーマス・クーンの本の中の引用です。赤いスペードを作って、トランプの中に混ぜて人に見せる実験です。
非常に速く見せていくと、赤いスペードは見えない。だんだんゆっくりしていくと「あれ、おかしいな。」って気が付くわけですけど、「赤いスペード。」には見えなくて、「あれ、おかしいなこのスペードには赤いふちどりがある。」とか言い出す。だんだんゆっくり見せると、みんな分かって「ああなんだ、赤いスペードじゃないか。」って言い出す。ところが、トーマス・クーンの引いてる最後のところで、人によってはそれを受け入れることができなくて「もうこんなゲーム嫌だ。」って言って投げ出すことがある。
それから、三番目のは新しい理論ができたからといって決して古い理論をそのまま排除するわけではなくて、それが含まれていたり、並行して行われていたりする。古い理論は日常的な部分では間違ってないわけですから、それはそれで、使える範囲を区切れば使えるわけです。天動説じゃあロケットは飛ばないけれど、洗濯物は乾くわけです。
萩原:あるものから別のあるものへ、一気に認識全体が全部変わってしまうわけではないということです。知識のネットワーク全体の中で、自分たちにとってより強固なものとなっている部分の変化、つまりネットワークの状況布置の変化がパラダイム転換です。それは、時代や状況の変化に伴って移行していく、ということです。
宮永:時代によって常識も変わる、ということですよね?簡単に言っちゃうと。
まだちょっと時間がありますね。どうしましょう?この後は。
高橋:一つ質問があります。
宮永:はい、どうぞ。お願いします。
高橋:この、事実認識というのは、推論としてとりあえずぴしっと決めましょう、ということで進んでいくのですか?
宮永:いや、むしろ逆です。結局、もう全ては薮の中、っていう感じですよね。カフカになっちゃう。
高橋:そうですね。最初レジュメを見た時から、事実というのはどういうとり方をしているのかな?ということがわからなかったので確認したかったのです。
宮永:でも、さしあたってここからと、決めないわけにはいかないんじゃないですか?
高橋:そうですね。それには同意します、全く。あとは、それを今度自分がどう打ち出していくか。それこそ、挑戦を受けた時に相手を納得させるか、もしくは自分が一部納得して変えていくかにつながっていきます。
宮永:そうすると、それが次に行く。ポストモダンに行くわけです。これが事実だということを言えてた時はクラシックであって、「だから私はこうします」って言えるんですけども。ポストモダンはそうじゃなくて、「それが私にはこう見えているので、こうしかできない」という言い方しかできないんです。
そこのところで、客観が否定されて主観に戻ったっていうので、日本では一時非常に喜んで、西洋は間違った客観主義を捨てて、つまり合理主義を捨てて、私たちがずっとやってきた(何千年もやってきた)主観主義に戻った、というふうに考えたりしたわけです。  
ここは、ちょっとそれは違うんじゃないかな、と思います。客観を捕まえようとした後で出てきたポストモダンの主観主義と、日本のいわゆる伝統――ってどこにあるかわからないんですけど、括弧つきの伝統の、あるいは伝統論者の言うところ――の、主観主義っていうのは、西洋ポストモダンの主観とは違うんじゃないか、と思うんです。それを、2つを同じだと思うと、間違ってしまう。ところが。今、なりつつあるんじゃないのでしょうか?
外山:ちょっといいですか?
宮永:どうぞどうぞ、たくさんいいです。
外山:ポストモダンは客観を否定しているが、その否定の仕方は日本の主観主義とは違うのではないか、というお話についてです。私のポストモダニズムの理解をまず言います。そうするとまたわかりやすくなるかもしれません。十九世紀終わりから二十世紀初頭にかけて、その時代に顕著になったある考え方があります。それは「人間は絶対的な知の基盤に必ず到達できる」という考え方です。そしてそれは諸学問で見られると思います。
宮永:それ、いつ?
外山:十九世紀終わりから二十世紀初頭にかけてです。例えば、現象学の初期であるとか、数学で言えばヒルベルトのプログラムであるとかです。現象学だと、絶対的に正しい認識の基盤をなんとか確立しよう、そしてそれはできるんだ、という考えですし、またヒルベルトは完全で無矛盾な数学的体系を構築しようと目論んだのです。そして、ポストモダニズムが何を否定したかと言うと、それは近代の全て、つまり客観主義をも捨ててしまったのではなくて、人間が最終的に知の絶対的な基盤に到達できる、ということはおかしいのではないか、到達したとわかることは不可能なのではないか、こう考えるのがポストモダニズムなのではないかと 思うのです。例えば、ゲーデルという論理学者はヒルベルトのプログラムを打ち破ったのです。
いろんな方法がありますが、人間が絶対的な知の基盤に立ったとわかることが不可能であることの証明は次のようなものです。それは比喩で言うと、嘘つき のパラドックスの変形版で、「私は正直者です」という文を用います。ちなみに、「私は嘘つきです」というのが嘘つきのパラドックスと呼ばれるものです。さて、「私は正直者です」と言う人がいるとします。しかし、その人は嘘つきだから嘘をついて「私は正直者です」と言っているのかもしれないし、それと も本当に正直者だから正直にそう言っているのかもしれません。どっちか判定がつかないのです。
同様に、仮に人間が絶対的な知の基盤に到達できたとします。そして「我々の基盤は絶対的に正しい」と言ったとします。でもその言葉は「私は正直者で す」という言葉と本質的に同じです。その基盤が間違っているから、間違った結論として「我々の基盤は絶対的に正しい」と言っているのか、それとも本当に 絶対的な基盤に到達したから正しい結論としてそう言っているのか判定ができないではないか、と考えるのがポストモダニズムだと思います。

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